獅子吼スカイフェスタ 2004

タイトル画像出典:NHK「プロジェクトX -挑戦者たち-」より

第1部:こうして「祭り」が始まった・・・

2004/08/16UpDate


この物語は、獅子吼スカイフェスタで栄光を勝ち取るまでの、熱きフライヤーたちの挑戦の記録である・・・。


「2004年7月31日。今年も獅子吼の暑い夏がやってきた・・・!」

 獅子吼高原スカイフェスタ。空を愛するフライヤーたちが、仮装フライトで競う夏の祭典である。2000年から開催されたこのイベントは、毎年多くの仮装フライヤーを集め、仮装フライトのご本家であるイカロスカップにちなみ、「日本のイカロスカップ」と言われるまでに成長した。
 このスカイフェスタに、2002年から参加し続けているクラブがある。富山県の立山エリアを本拠とする、ハミングバードパラグライダークラブである。このイベントには、毎年プロジェクトチームを編成し、多くのクラブ員を動員、フェスタ自体を盛り上げてきた一大仮装集団である。
 そして、今年も彼等が獅子吼の空に帰ってきた。大掛かりな仮装を引っさげて・・・。

きっかけは1年前

 ハミングバードパラグライダークラブと言えば、「夏と言えば・・・お化けでしょう」で2002年のスカイフェスタでコミック賞を受賞(実質総合3位)、「夏といえば・・・虫でしょう」で2003年のスカイフェスタではアイデア賞1位(実質総合2位)を受賞し、「夏と言えば・・・」シリーズで参加する知名度を確立していた。そもそもこの「夏と言えば・・・」のタイトルを考案したのは、2002年獅子吼スカイフェスタプロジェクト委員長であった広野幸弘氏であった。2年目参加の際は、そのタイトルを継承しただけであると、若林恵子氏は語ってくれた。

初代委員長の広野氏(写真左の右側)と、初代パイロットを務めた若林氏(写真右)

 昨年の閉会式の時、スカイフェスタ実行委員で審査員でもあったスカイ獅子吼の紺清支配人が、「立山の来年は夏と言えば何なんでしょう?とても楽しみですね・・・。」と挨拶され、2004年も引き続きこのシリーズを継承することになってしまったのである。

新委員長の重圧


左側が清水氏。右側が小林氏。
 2004年スカイフェスタプロジェクトの委員長は、2代目委員長の清水清一氏の指名を受け、小林一郎氏が就任した。ハミングバードパラグライダークラブでは、歴代委員長が次期委員長を指名する権限を持っており、これを拒む事は許されない。小林氏には、周囲からのプレッシャーが重くのしかかっていた。何故なら、初代広野氏で事実上の3位受賞、2代目清水氏で事実上の2位を受賞しているとなれば、おのずと周りの期待は「次は優勝」となるのは当然の流れであろう。この流れと、ある種の宿命とも言える優勝の2文字を背負ってしまった小林氏によって、2004年のプロジェクトメンバーが選出され、プロジェクトが始動することになるのである。

アイデアは浮かばず

 毎年のことであるが、プロジェクトチームのメンバーを悩ませる一番の問題は「アイデア」である。2004年のメンバーは、既に昨年からアイデアを募る活動を開始していた。しかし、アイデアはそう簡単に集まるものでもなく、時は流れて2004年も5月後半に差し掛かっていた。
 この頃から、プロジェクト委員会の活動は活発化してきてはいたが、ミーティングで語られるのはアイデアが中心。獅子吼スカイフェスタのビデオを見て研究し、「2003年作品ムカデのように、吹流し系で動きのあるもの」と言うテーマでアイデアが練られ、「イカ」や「タコ」などのアイデアが話し合われていた。しかし、これらは過去既に出品されていたため没となり、「ジンベイザメはどうか?」との意見もあったが、動きの優雅さと見た目のインパクトからか「マンタ」を製作することで話がまとまり、更に海シリーズとして、周囲の参加者は他の魚に扮して参加する線で企画がまとまって行ったのである。

当初のアイデアであるジンベエザメ(左)とマンタ(右)

マンタじゃダメだ!!

 2004年6月に入り、プロジェクトはマンタのプロト製作に取り掛かっていた。そんなある日、エリアを訪れた藤野光一(通称Pikaichi)は、プロジェクトの進行具合について恵子(若林恵子)に訪ねた。恵子の話では、メインの出し物はマンタに決定し、参加者は魚に扮して出場することで企画が固まっていたとのことだったが、製作を含めて実質上プロジェクトを牽引する役割を担う恵子自身が乗り気ではなく、更にプロジェクト自身も盛り上がりに欠けていると言う。また、小耳に挟んだ情報では、小林委員長は「今年で一旦落とせばいい。優勝は狙わない。」との意思を持っているとも伝えられ、プロジェクト自身が上手く機能していないように思われた。
 藤野は「マンタじゃダメだ。これで”夏と言えば・・・海でしょう”って言うのはあまりに安易すぎる」と思った。しかし、夏と言えばシリーズの足かせがある以上、藤野自身が思い浮かぶアイデアは「花火」か「祭り」しかなかった。しかし、今年でこのシリーズにピリオドを打ちたいと考えていた藤野は、その集大成としてふさわしい2文字である「優勝」を勝ち取るため、恵子の持っていたアイデアである「曳山」を取り入れ、「祭り」で勝負に出ることを決意したのである。
 すぐさま小林委員長と、マンタのプロトを製作していた稲美副委員長に連絡を取り、「曳山」に変更することで了解を取り付けた。そして、プロジェクトメンバーを集めての企画説明を行ったのである。

主役は祭りそのものだ!!

 藤野の考えた企画とはこうである。まず、目標は「優勝」に置くこと。しかし、それ以上に参加者自身が大いに楽しむことを最大のコンセプトに据えた。これには勝算があった。過去のスカイフェスタの受賞作品を見ると、大きなキーワードが浮かび上がった。それは「インパクト」と「初物」であった。特に、2002年の優勝作品であった「無法松の人力車」は、まさにインパクトが最大のウリである。誰もが「あんなもの飛ぶのか?」と思ったに違いない。そして、ハミングバードがスカイフェスタに持ち込んだ「グループ参加型企画」があった。お化けでは、メインの一旦もめんのインパクトに加え、周囲を鬼太郎ファミリーが一緒に飛ぶことで支持を得た。また、昨年の虫でも、ムカデの不気味な足の動きが大きなインパクトになり、仲間の虫たちも飛ぶことでフェスタを盛り上げたことが受賞の要因であろうと分析出来た。
 話はそれるが、2002年のつくばねチームの出し物である「バカ殿」で、もしもメインのバカ殿の吹流しか作り物があったならば、コミック賞は彼等であったに違いないと藤野は分析していた。
 そんなことを踏まえ、「飛びそうにないものが飛ぶこと」、「作り物はそれ自体が美しく、作品として価値のあるもの」、「何処にあっても目立つこと」を実践すれば、必ず優勝出来ると考えていた。その最大の秘策が「曳山まつり」自体をスカイフェスタに参加させることであった。主役を「曳山」と言う作り物にせず、「曳山」を中心とした祭りそのものに置くのである。このような参加形態は過去に例がない。テイクオフでも、ランディングでも、祭りを繰り広げる事で大いにアピール出来るのである。まさに「祭りと祭りのコラボレーション」である。これで優勝できない訳がないと思った。

曳山の模型と曳山に使用ちょうちん



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